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大阪地方裁判所 昭和59年(ワ)9450号 判決 1991年8月29日

原告

中川益人

右訴訟代理人弁護士

村田哲夫

田中義則

被告

右代表者法務大臣

左藤恵

右指定代理人

木下俊一

外二名

被告

大阪府

右代表者知事

中川和雄

右指定代理人

吉田晃

被告

大阪府大東市

右代表者市長

西村昭

右訴訟代理人弁護士

俵正市

草野功一

主文

一  別紙物件目録記載の土地が原告の所有であることを確認する。

二  訴訟費用は被告らの負担とする。

事実及び理由

第一原告の請求

主文一項と同旨

第二事案の概要

一請求原因

1  当事者及び宮谷川

(一) 飯盛山に水源を発し、権現川に通じる宮谷川(以下「本件河川」という。)は、被告大東市の市長が、国の機関として、大東市準用河川管理規則(昭和五三年七月一日規則第一〇号)を制定し、準用河川(河川法一〇〇条)に指定している河川である。

(二) 被告大阪府の知事は、国の機関として、国有財産法により、建設省所管の国有財産を管理し、本件河川については、大阪府枚方土木事務所長が境界査定などの事務を担当している。

(三) 被告国は、本件河川の河川敷たる土地を所有している。

2  原告は、

大東市北条六丁目一四八〇番地の一

宅地815.57平方メートル

(実測1058.54平方メートル)の土地を所有しており、右土地上には原告の居宅が存在する。右土地(以下「本件土地」という。)のうち別紙物件目録記載の土地(以下「本件係争地」という。)は土居であって、原告宅の土塀があり、北側は宮谷川に面している。

3  本件係争地が本件土地の一部である理由について

(一) 本件土地(246.71坪)は、もと北河内郡四条村大字北條一四八〇番地、宅地二八八坪であり、実測(昭和六〇年七月三〇日昇測量設計事務所実施)は1058.54平方メートル(320.77坪)ある。そして右のうち86.29平方メートルが本件土居部分となって、下部は両側が石積みとなり、上部は原告の敷地の北側の土塀となっている。

(二) 宮谷川のかさ上げと土居の設置

(1) 原告の先祖は、江戸時代の初期から高野街道沿いに住み、少なくとも宝永の頃には現在地(本件土地)に住むようになった。

(2) 元禄年間には、北条村を流れる川には、宮谷川と市場川があり、いづれも権現川に合流し、深野池に流入していた。

元禄一六年(一七〇三)から始まった深野池の干拓により、右両川をかさ上げする必要があり、宝永二年(一七〇五)に原告の先祖の屋敷内に土盛りがなされ、宮谷川に面して石垣が建造された。

原告が所有している弘化年間作成の屋敷見取図(甲五、甲一二の一)及び弘化四年作成の田畑絵図面帳(甲三)によれば、土居が原告の屋敷内に記載されている。

右の土居のうち、下部の石積みは宝永時代のものであり、それは明治五年に原告の先祖がやりかえ、またその上の土塀は大正時代に原告の先祖が修繕を行った。そして右石積みは相当古いものであることは、四角に割った石がそのまま積み上げられ、石と石との隙間には何らコンクリートなどが使われていないことからもわかる。このような石積みがあるのは、宮谷川沿いでは、一四七九番地から一四八三番地まで、即ち原告宅付近に限られている。右のことから原告の先祖がいわゆる深野池の干拓が元禄年間に行われた際、水流の変化に応じ、石積みをした推論されるのである。

(3) ところで、前記甲三は、本件土地を朱色で土居と記入している。この絵図面帳の別の頁が甲九であり、字垣添に原告の先祖が所有していた田がある。これをみると「京海道堤、大川(権現川のこと)堤」とあり、明らかに原告の先祖が土居と堤とを区別していたことがわかる。土居は、堤とは別の概念であり、武士の屋敷地を囲む土塁を指し、居住者の私有性が強く働いた区画を指す。

(三) 地租改正

我国は、明治五年に土地完買の解禁がされ、明治六年に地租改正作業がなされた。原告の屋敷地については、明治八年に改正がなされ、明治一三年に地券(<書証番号略>)が交付され、宅地九畝一八歩(二八八坪)が原告の先祖中川九郎の所有となったのである。同地は、大閤検地より六尺三寸竿をもって測量され、右地租改正時もそうであった。地租改正施行規則第四二章によれば、古新検入交りのあることが明らかである。そして北条村は古検のままであった。

従って、前記二八八坪も六尺一間に換算すると三一七坪五二であるから、ほぼ実測坪数320.77坪に等しい。前記甲五の原本を正確に謄写したものが甲一二の一であるが、この絵図は物差しと現在にある原告の家の実寸から判断し、曲尺一寸を一間(畳一枚の長さ、即ち六尺三寸)とした縮尺によって画かれているが、右を基準にして屋敷全体を測ってみると、318.8坪になっている。

これらのことからとりもなおさず、江戸時代以降本件土居部分を含めて原告の所有地であったことがわかるのである。

(四) その他の事情

(1) 元禄三年(一六八八年)作成の絵図面(<書証番号略>)によれば、宮谷川の右岸(南側)には、堤が記載されていない。

四条畷市歴史民族資料館の宝暦四年(一七五四年)作成の絵図面(<書証番号略>)の凡例によれば、黒色の部分は堤を表示している。しかし川の両側を細い黒色の線で塗ってあっても、必ずしも川の両側に堤があったことを示すものではない。単に川と土地の区別を明確にするために川の両側を強調したにすぎない。

例えば、谷田川に接している土地のうち、大東市北条六丁目一一六三番の宅地(但し、昭和五八年に同番二の土地が分筆される前の土地)も、谷田川と接する部分は細い黒色の線で塗られている。しかしこの部分は実際には堤ではなく、私有地であった。

(2) 旧陸軍測地部の地形図(甲四)によれば、図面中央の「北条」と「四条」との中間にある宮谷川は、西(下流)は堤防の表示があるのに、東(上流)はそれがない。

(3) 一四八〇番地の二は元原告の先祖中川ユウの土地であり、昭和一九年に竹部徹に出坪分41.29坪を売却したものである。この一四八〇番地の二は地番を創設する際に、一四八〇番地の地番を借り、同地番の面積から右坪数を控除して登記したもので、一四八〇番地自体の坪数は登記面の数字のみ減少し、実測は前後何ら変化していない。そして、その当時の土地分筆の申告書写(甲一四)によれば、一四八〇番地の一の土地の西側の南北については、一四間八〇と記載されている。それをメートルに換算すれば、26.90936メートルであり、今回の実測による27.58メートル(25.41と2.17を加えたもの)と比較しても誤差は少なく、したがって、ユウは土居部分も含めて計算し、隣接者と地区の区長の承認を得て、北条村役場経由で税務署に申告しているのである。

(4) また、甲一四の図面によれば、原告宅地の北側の宮谷川の川幅が東側隣接の一四八三番地の土地(石垣なし)と同じであり、橋を経て無理なく一四八三番地に続いている。仮に本件土居部分が河川敷であるとすると、一四八三番地の川幅が広くなっていなければならない。

(5) 本件係争地を含む本件土地については、地租改正によって原告の先祖の中川九郎につき地券が交付され、近代的所有権が確定された。その後、原告の当主は、代々土居の部分を含めて平穏、公然に占有を続け、それにつき誰からも苦情は出ず、誰にも占用料を支払うことなく、また、石垣土塀も自ら修繕してきたのである。

(6) 「公図の研究」(藤原勇喜著、<書証番号略>)によれば、昔ながらの石積護岸を施した民有地の中を流れる小川で、両岸の石積も民間で維持修繕を行っている場合はまず、石垣の根元が民有地との境界であると思えば間違いないとして、その例が明治時代に多いとしている。

本件の石垣は、両岸とも、宝永年間になされたものであることは前述のとおりである。

4  しかるところ、被告大東市は、本件係争地を国有地だと主張して、土塀を除去しようとし、被告国及び同大阪府も右係争地につき原告が所有権を有することを争う。

5  よって、原告は、本件係争地が、原告の所有であることの確認を求める。

二被告らの主張及び原告の反論

(被告国及び同大東市の主張)

1 近代的土地所有権について

原告は、本件係争地は、江戸時代の初期から原告の先祖が所有し、今日に至っているから、原告の所有であると主張する。

しかしながら、近代的土地所有権は、明治の初期に制度化され、それによって土地所有権が創設されたものであるから、本件係争地の所有権を論ずるに当たっては、右時期に本件係争地が如何に取り扱われたかを明らかにすることが重要である。

(一) 江戸時代には、土地に対し、近代法のような抽象的、絶対的、包括的な支配権としての所有権の概念はなく、「所持」とか「支配進退」といわれるところの具体的、現実的な土地の支配が存在していたにすぎなかった。

(二) 明治政府は、明治の初めから地租改正事業を行ったのであるが、その前提として近代的土地所有権制度を確立していった。すなわち、明治政府は明治四年九月七日大蔵省達第四七号「田畑夫食取入ノ餘ハ諸物品勝手作ヲ許ス」ことにより、人民の田畑に対する自由な使用収益を認めるとともに、明治五年二月一五日の太政官布告第五〇号(<書証番号略>)により、それまで禁じられていた人民による土地処分の自由を保障し、明治五年二月二四日大蔵省達第二五号「地所永代売買許可ニ付地券渡方規則ヲ定ム」(<書証番号略>)をもって、個人が土地所有権を設定した場合、個人に対し、「地所持主タル確証」として土地の反別、地価を記載した地券を交付するという、いわゆる地券制度を確立した。

さらに、明治政府は、地券制度の確立に伴い、地籍整理のために明治六年三月二五日太政官布告第一一四号「地所名称区別」(<書証番号略>)を発し、土地に関する官民有区分について法制上の根拠を確立し、明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号「地所名称区別改定」(<書証番号略>)をもってそれを一層精緻なものとし、ここに、全国の土地所有権に関する官民有区分が法制度的に確立されるに至ったのである。

すなわち、明治政府は、私有財産を確定し、その所有者に地券を交付し、そうでないものは官有地に編入することにより、いわゆる官民有区分を実施していったのである。

(三) そこで、本件堤塘敷(水路敷)を中心として、土地所有権に関する官民有区分をみると、次のとおりとなる。

当初の「地所名称区別」によれば、全国の土地は、皇宮地、神地、官庁地、官用地、官有地、公有地、私有地および除税地の八種に分類され、堤塘は右分類中「除税地」に編入され、「私有地」から区別されていた。したがって、私有地については「地券ヲ法ノ如ク授与シ地租区入費トモ成規ノ通リ収入ス」ることとされていたが、「除税地」については「地券ヲ発セサル」ものとされ、地券は発行されなかった。このことは、堤塘が私使有権の対象となり得ないとの当時の考えを示すものにほかならない。

ところが、その後に発せられた前記「地所名称区別改定」によって、すべての土地は、官有地と民有地の二本立てに整理されるに至った。その結果、堤塘についていえば、(イ)官有地第三種に属する堤塘と、(ロ)民有地第三種に属する「民有の堤敷」(明治八年一〇月九日太政官布告第一五四号をもって追加。<書証番号略>)に分類され、官有地としての堤塘と民有地に属する堤敷とが存在し得ることとなったのである。

(四) そこで、ある堤塘が官有地であるか、それとも民有地であるかの認定に当っては、当時の法制で判断せざるを得ないところ、官有地第三種としての堤塘であれば、「地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス」とされていたのに対し、民有地第三種としての堤敷については「地券ヲ発シテ地租区入費ヲ賦セサルヲ法トス」とされていたのである。

結局、ある堤塘が私所有権の対象とされる場合には、必ず地券が発行されなければならない理であって、これに反して地券が発行されていない場合には、その堤塘は官有地、すなわち国有地にほかならないのである。

(五) これを本件についてみると、本件係争地に対しては、何人に対しても地券が発行されていないから、一貫して国有地であることは明らかである。また、そもそも本件係争地は、宮谷川の堤防敷として公共の用に供されている土地であるから、それが私所有権の対象とならなかったのは当然のことである(以下本件係争地を「本件堤塘」ともいう。)。

2 旧土地台帳付属地図の記載について

(一) 大阪法務局四条畷出張所備付地図(旧土地台帳付属地図。<書証番号略>)によれば、本件土地の元地である一四八〇番の土地の北側部分は、地番が付されず、青色で着色された土地である。このような無地番の土地は、一般に青線と称される水路敷であり、国の所有に属するものとされている。

すなわち、このような土地は、古来より灌漑用水路などとして地域で共同利用されていたもので、明治はじめの地租改正事業におけるいわゆる官民有区分の際、明治七年の「地所名称区別改定(明治七年一一月七日太政官布告第一二〇号)」の施行により、地租を賦課しない土地(官有第三種)と定められ、国有地に編入されたものである。

(二) この一四八〇番の土地の北側部分に接する水路敷(以下、「本件水路敷」という。)は、昭和五三年五月一日付けで大東市長が河川法一〇〇条の規定により準用河川として指定し、現在は「宮谷川」と称されており、同法及び大東市準用河川管理規則(昭和五三年七月一日規則第一〇号)により、大東市長が機能面の管理を行っている(<書証番号略>)。なお、境界確定手続き等の財産上の管理は、国有財産法九条三項、同法施行令六条二項、建設省所管国有財産取扱規則三条等の規定により、国の機関としての大阪府知事が行っている(本件については、枚方土木事務所長が事務を担当している。)。

ところで、国有地と民有地との境界は、国有財産法三一条の三の規定により隣接地の所有者との協議により決めることとされているが、一般に、水路敷は不動産登記簿にその記載がないことから、土地の範囲、面積等が不明確なため、境界の確認が困難な場合が少なくない。このため、大阪府では、境界確定の具体的な方法について、別途「境界確定事務取扱要領」により府及び府知事が管理する国有地等と民有地との関係についての一定の基準を定め、それを基に隣接地土地所有者との協議を行なっているが、その中で、水路敷の境界確定手続きに当たっては、実際に水が流れている流水面下の部分のみを水路敷の範囲とするのではなく、水路の機能を維持するのに必要な泥揚場、堤防敷等を含め、水路敷と判断している(<書証番号略>)。この方法は、本件のような公共用財産としての水路敷の性格を考えた場合、最も妥当な境界の決め方と考えられる。

(三) これを本件についてみると、原告が所有権を主張する本件係争地は、原告所有の一四八〇番一の土地より高く、宮谷川の南側部分の堤防敷の一部となっており、流水面下の部分と一体となって河川としての形状を成している(<書証番号略>)。すなわち、本件土地付近の宮谷川は、いわゆる天井川(河床が付近の土地よりも高い川)であり、本件土地を含めた堤防敷が河川としての機能の維持に重要な役割を果たしているのである。

この天井川としての形状は、最近に形成されたものではなく、明治の地租改正事業実施の以前から現在の形態であったと推測され、そのような宮谷川の形態を基に、官民有区分がなされ、一四八〇番の土地の地番設定がなされたと推測され、本件係争地を含めて一四八〇番の土地の範囲が定められたものとは考えられない。したがって、本件係争地は国有水路敷(宮谷川)の一部と判断するのが妥当である。

3 地券(<書証番号略>)について

原告は、北条村においては明治の地租改正に際して、古検の六尺三寸を一間として取り扱われた旨主張する。

ところが、地租改正を担当した当局は、地租改正条例細目(明治八年七月八日地租改正事務局議定)一条により、地所の丈量における長さの測定単位は一間を六尺(これに砂摺として一分を加えた六尺一分竿と規定された)と定めるとともに、右細目の指令以前、すなわち改租作業の開始当初に六尺三寸若しくは六尺五寸の間竿で測定済みのものについては、帳簿数値を一間を六尺として換算し直すよう強力に指示したことから、全国各地の土地の丈量作業は極めて厳格に実施されたものである。本件係争地の存在する堺県においても他県と同様に明治七年から同九年にかけて、改租のための土地の丈量作業が厳格に実施されたことはいうまでもないところである(<書証番号略>)。

さらに、このことについて、地券に示すとおり、九畝一八歩すなわち二八八坪に換算してあてはめると九五二平方メートルとなり、原告が依頼した昇測量による、土居部分を除く本件土地(一四八〇番地の一)の実測面積とほぼ等しくなり、被告らの主張が正当であることを裏付ける反面、原告の一間を六尺三寸とする地積計算の主張はその前提を欠くものといわざるを得ない。

4 原告主張の「土居敷」について

原告は、「土居」とは、元来は集落の周囲に防御のためにつくった土塁であり、転じて土豪の屋敷を称したものであり、また城の周囲の土の垣というものであるとするのが通常の用法であると述べ、本件土地は、敷地を囲む塀の機能を有する「土居敷」であるとして、田畑絵図面(<書証番号略>)を根拠として、所有権を主張するようである。

しかしながら、田畑絵図面は、前述した近代的土地所有権制度が確立される以前に作成されたものであり、主として田畑の石高を把握し、年貢を徴収するために利用されていたことからすれば、田畑絵図面中、「土居」「堤」の表示は、所有権の存在を表わすものではなく逆に、公共地(村落の総有)的なものとして他の土地と区別する意味で表示したとも考えられるのである。

また、「土居」については、原告が述べた以外にも「どて」「堤」「建物、塀、家具などの土台」等(広辞苑)の意味もあることからすれば、原告主張のように田畑絵図面の「土居」の記載をもって所有権の帰属の根拠となり得ないことは明らかである。

ところで、宮谷川は、飯盛山を水源として東から西に向けて直下に延びる河川であるが、公図上、周辺の水路より太い青線によって表示されており、また宮谷川は天井川であり、本件係争地は流水部分と接する部分で、河床より下から石垣が築造されており、実質上、護岸擁壁として公共の用に供されていることは明らかである(<書証番号略>)。

以上のとおり、本件係争地は宮谷川の堤防敷であって、原告の主張は失当である。

5 本件土地周辺の現況について

本件土地に隣接する一四七九番地の三の土地付近の宮谷川について暗渠化工事をする際に、昭和五七年九月三〇日、大阪府枚方土木事務所及び大東市下水道部の各関係職員と右一四七九番地の三の土地の所有者の北条神社の植村伊作、原告以外の隣接土地所有者及び地元関係者が出席し、境界確定作業を行ったが、地元関係者は宮谷川が天井川であるという認識であり、前記一四七九番地の三の土地については、石垣のすべてを含むのり裾部分までの堤塘敷が国有地であるという認識の下で境界の確認がされた。

このことからも、本件係争地は国有地であるということが明らかである。

(被告大阪府の主張)

1 本案前の抗弁

大阪府知事は、国の機関委任事務として、国有財産の管理を行っているものであり、府土木事務所長は知事の権限の再委任を受けて境界査定事務を行っているものである。そして、機関委任事務の性質上、その法律効果は国に帰属するものである。原告の被告大阪府に対する訴えは、確認の利益を欠き、却下されるべきである。

2 本案については、被告国の答弁及び主張をすべて援用する。

(被告大阪府の本案前の主張に対する原告の反論)

確認の利益は、ある土地について、その所有権が被告か原告かのいずれかに帰属するような争いについてのみ肯定されるのではない。それ以外の第三者との関係においても、原告の法律的地位の安定が得られるということであれば、確認の利益を有するとしなければならない。

水路、里道は法定外公共物として所有権は国にあることは疑いないが、その土地について、所有権の範囲を正確に決定する権限は国になく、国の機関委任を受けた行政庁にある。そして本件の場合、現実には、枚方土木事務所長が境界査定処分を行うこととなる。

そこで、受任機関の処理の効果は、受任機関自体に帰属すると説かれるのが一般であり、行政訴訟の場合は受任行政庁が被告適格を有する。もちろん、境界査定処分は行政処分ではないが、右と同様に考えて、その法律効果は知事に帰属するとしなければならならない。その故に、境界査定費用は、地方自治法二三一条一項により、地方公共団体が支弁するのである。

そして、知事自身は行政機関であるから、民事訴訟では被告たり得ず、権利主体たる大阪府を被告としなければならないのである。

三争いがない事実及び主要な争点

(争いがない事実)

請求原因1、同2のうち、原告が本件土地を所有していること(ただし、その範囲及び実測面積については争いがある。)、被告国、同大阪府及び同大東市は、本件係争地が原告の所有であることを争っていること、以上の事実は、本件において争いがない。

(主要な争点)

1 原告の被告大阪府に対する訴えは、確認の利益があるか。

2 本件係争地は、宮谷川の河川敷の一部(堤塘)であって、被告国の所有か。それとも原告の所有する本件土地の一部か。

第三当裁判所の判断

一原告の被告大阪府に対する訴えにおける確認の利益について

前記争いがない事実によれば、被告大阪府の知事は、国有財産法上、被告国の機関としての立場で、大阪府枚方土木事務所長を通じ、国有財産である宮谷川について境界査定などの事務を行なうものであり、その効果は被告国に帰属するものであるが、必要な場合は、被告大阪府も、議会による検閲検査(地方自治法九八条一項)、監査(同法九八条二項)及び監査委員による監査(同法一九九条二項)ができ、このような方法で前記大阪府知事の査定等を監視することができる立場にあるから、被告大阪府が本訴において原告の本件係争地に対する所有権を争う以上、原告の同被告に対する本件訴えには、確認の利益があるというべきである。

二本件係争地及び近隣の現況

1  本件係争地は、宮谷川(本件河川)に沿って東西に細長い土地であり、右河川(実質は水路に近い。)及び本件係争地より一段低い所に原告宅がある。

その構造をみると、外側(宮谷川側)には、下部にコンクリートの擁壁があり、これが宮谷川の流水と接し、その上に石積みがされ(石積みの隙間はセメントで固められている。)、内側(原告宅側)には石積みがされ(この部分の石積みにはセメントは使われていない。)、本件係争地には原告方の土塀が設置され、土塀は瓦屋根付きで、外側はセメントを塗って補強されている。

2  本件係争地より東側(宮谷川上流)は、一四八三番地付近まで右と同様な石積みがあるが(ただし、一四八三番地付近はコンクリート擁壁がなく、石積みもセメントは使用されていない。)、更に上流になると、石積みはなく、コンクリートブロック積みになつている。

本件係争地より西側(宮谷川下流)は、一四七九番地付近まで宮谷川に沿って石積みがある。更にその下流すなわち、地元の住民に高野街道と呼ばれている道路を越えた先や、宮谷川を挟んだ北側地区には、少なくとも前記と同様の石積みはない。

(以上の点の証拠は、<書証番号略>、原告の第一、二回)

三土居の設置、管理者及び管理状況

1  原告家に伝わる田畑絵図面帳(<書証番号略>)は、弘化四年(一八四七年)の作成であるが、これによれば、現在の原告宅の北側、本件係争地付近に「土居」の表示がある。そして右土居の北に二本の線が引かれ、横に「宮谷川」の記載がある。

屋敷の南側には、「道」の表示があるが、この道の部分まで絵図面の区画の中に取り込まれており、このような書き方からすると、前記二本の線は宮谷川を表わすと考えられる。

したがって、土居と宮谷川は、少なくともこの絵図面上は相接している。

ところで、「土居」とは、「中世、武士の屋敷地を囲む土塁、又は屋敷地全体」をいうが、江戸時代では死語となり、近世では「土で固めた土手」と定義される。しかし、前記田畑絵図面帳の別の部分では、大川(現在権現川)や谷田川沿いの堤防を「堤」と表示しており、この絵図面の作成者は、土居と堤を明確に区別して書いたというべきであるから、前記土居を単なる堤防の意味と解することはできず、むしろ、「屋敷地を囲む土塁」の意味に解するのが相当である。

2  右土居(土塁)が、いつ頃、どういう経緯で築かれるに至ったか、詳細は不明である。

原告は、現在残っている前記石積みは、元禄一六年に権現川下流の深野池の埋立工事が始まり、右埋立により宮谷川を嵩上げする必要が生じ、宝永二年(一七〇五年)原告の先祖が本件土居を設置したと主張するが、これを認めるに足りる証拠はない。

また、四条畷市立歴史民族資料館保管の宝暦四年(一七五四年)作成の絵図面には、本件係争地付近の宮谷川の両側に黒い線が引かれているが、これが「堤」を表わすものだとしても、その後の長い時間的経過やその間の宮谷川及び周辺土地の変化等を考慮に入れると、右堤と本件係争地との同一性等、具体的な事項は不明といわざるを得ない。

しかし、前記田畑絵図面帳の存在や「土居」の意味、原告方に明治一二年に本件土居等を修繕した時の経費帳が残されていることや前記石積み等の存否及び構造が場所によって違っていること(これは村等の公的主体が統一的に護岸の管理に当たってきたのではなく、川の近辺の家々がそれぞれの意思と責任で右管理をしてきたことを窺わせる。)、古い時代に村等の公的主体が宮谷川の護岸工事等をしたとの資料は見当たらないことなどの点からして、本件土居は、遅くとも弘化四年までには原告の先祖によって設置され、以来現在に至るまで、原告の先祖及び原告自身によって管理かつ利用され、また必要な修繕を施されてきたと認めるのが相当である。

原告の先祖及び原告自身によってなされた右管理等に対し、他から異議が述べられたことはなかった。

(以上の点の証拠は、<書証番号略>、証人山口、原告の第一、二回、検証)

四地租改正と本件係争地

1  本件係争地付近の旧堺県では、明治七年三月から同一一年一一月にかけて、地租改正が行なわれた。

地租改正に当たり、堤塘については、官有地第三種に属する堤塘と、民有地第三種に属する堤塘の二種に分類された。前者は、「地券ヲ発セス地租ヲ課セス区入費ヲ賦セサルヲ法トス」「但人民ノ願ニヨリ右地所ヲ貸渡ス時ハ其間借地料及ヒ区入費ヲ賦スヘシ」とされ、後者は、「地券ヲ発シテ地租区入費ヲ賦セサルヲ法トス」とされた(明治七年一一月七日太政官布告一二〇地所名称区別改定)。

2  原告の先祖である中川九郎は、明治一三年三月一五日、一四八〇番地宅地九畝一八歩の所有者として地券の交付を受けた。

そこで、地租改正において本件係争地は右土地に含められたか、それとも右土地に含まれず、官有地となったか、が問題となる。

(一) しかし、土地台帳付属地図によれば、本件係争地が官有の堤塘地として取り扱われたと認めるべき明確な表示はない。本件係争地付近に河川敷との境界を示す標識も存在しない。

なお、原告家が、地租改正後本件係争地を国から借り、借地料を支払ってきたと認めるべき証拠はない。

(二) また、前記地券に表示された土地の面積九畝一八歩から前記の問題について推知する方法はあるが、次の次第で、結局面積の点は、この問題の決め手にはなり得ない。

前記の面積は坪に換算すると、二八八坪である。原告の養母中川ユウは、昭和一九年一一月に、一四八〇番地から一四八〇番地の二(実測で41.29坪)を分筆して、竹部徹に売却し、残地の一四八〇番地の一の公簿面積は246.71坪になった。

ところで、原告が昇測量に依頼して行なった測量では、本件土居部分は、86.29平方メートル(26.10坪)、それ以外の原告宅地部分972.25平方メートル(294.13坪)であったが、前記246.71坪と対比すると、原告宅地部分だけでもこれを大幅に超過している。仮に、前記九畝一八歩が古検と同様六尺三寸竿で測量され(二八八坪は317.52坪になる。)、昭和一九年の分筆の際も一間は六尺三寸四方として測量されたとしても(41.29坪は45.52坪になる。)、残地の一四八〇番地の一の面積は二七二坪にしかならず、原告宅地部分の前記実測面積に遠く及ばない。

したがって、前記地券に表示された面積九畝一八歩に、本件係争地が含められているとも、いないとも断定はできない。

(以上の点の証拠は、<書証番号略>、証人山口、原告の第一、二回)

五本件係争地の所有権について

以上によれば、本件係争地の所有権の帰属については、本件係争地の占有状況を中心にして判断するほかないものというべきである。

そして、前記の認定事実によれば、本件土居は、江戸時代に原告の先祖によって設置されて以来現在に至るまで、原告の先祖及び原告自身によって管理かつ利用され、また必要な修繕を施され、これについて他から異議を出されたことはなかったというのであるから、他に格別の反証もない本件においては、その敷地である本件係争地は一四八〇番地の一の一部であり、原告の所有であると認めるのが相当である。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判官若宮利信)

別紙物件目録

大東市北条六丁目一四八〇番地一

宅地 815.57平方メートル

(実測 1058.54平方メートル)

右のうち 86.29平方メートル

(但し、別添図面イロハニホヘトチリヌルヲワイの各点を順次直線で結ぶ線内の部分)

別紙図面 <省略>

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